「はらぺこあおむし」の絵本は私に強烈な印象を残している。
まず、絵本に穴が開いている。
あおむしがものを食べた穴だ。
今ではそう珍しくもないのだろうけれど、私が小さいときにはそれは驚きだった。
それに、ページの大きさが違うのもびっくりした。
月曜日から金曜日まで食べるものが増えるにつれ、ページが大きくなっていった。
まだものがそんなに豊かじゃなかった。自分んちもそうだった。
なので、私はこの本で初めて「サラミ」というものと「洋ナシ」というものの存在を知った。
洋ナシは梨があったし、ほかの絵本やファンシーグッズのかわいいアイテムとして描かれることがあったので、なんとなく理解できた。
しかし、サラミはまったくわからなかった。だってソーセージだなんて、「3つのねがい」で鼻の下にぶら下げるくらいしか知らないし、あるいは魚肉ソーセージかタコさんウィンナーが身近にあるものだったし。
ずいぶん大きくなって、本物のサラミ、本物の洋ナシを見て、食べたとき、すっごく感動した。
「はらぺこあおむしが食べてたものの正体、やっとわかった!!!」
そして、異国を感じた瞬間でもあった。
大きくなってから知ったものは他にもあった。
この絵本は「数字」と「曜日」が覚えられるし、ちょうちょは最初からちょうちょではなくあおむしからさなぎ、チョウと変態するものだという知識を得ることができる。
「こんなお勉強要素があったんだ!」と知ったときには驚いた。
あんまりの「お勉強絵本」は、大人が求める子どもへの期待感が大きすぎたりあざとすぎたりして嫌いなんだけど、「はらぺこあおむし」はそんなことを気づかせなかった。
あおむしは本能のまま、たくさんの食べ物を食べ、最後には「え?!こんなにっ?!」とびっくりするほどのものを食べた。
小さかったあおむしは絵本いっぱいのはみ出すんじゃないか、というくらいぶとぶとあおむしになった。
そして、お腹が痛くて、絵本のあおむしは泣いていた。
本気で心配した。
子どもの頃の怖いもののひとつが腹痛だったから。
とにかく痛くて不安で怖かった。
「あんなに食べ過ぎるからだよ」と思いながら、あおむしとシンクロするように自分のお腹も痛くなりそうだった。
だから、あのページは苦手。
人間の食べ物ではなく、緑のはっぱをちょっとかじったときには「それが本来の食べ物なのでは… むちゃするからだ」と面白くないコドモとしてこっそり思ってた。
こういうことを言うコドモは大人は嫌うことを知っていて、黙っていた。
大きなちょうちょになったとき、感動よりも「え?」と放心してしまった。
あのかわいいあおむしはどこにもいなかった。
でっかいちょうちょだけがいた。
あんなに食べ物をたんまりと食べ、お腹が痛くなり、そしてでっかく成長しでっかいサナギになるという旅を共にしてきたあおむしはまったく違うヤツになっていた。
その変貌ぶりに「あたいの知ってるあおむしはいなくなったんだ」と思った。
だからラストもあまり好きじゃなかった。
改めて思い出すと、かわいげのないコドモね。
ずっと「かわいげのない」と言われ続けてきて「あんたにかわいいと思ってもらおうと思っていない」と内心思っていた通りの偏屈なコドモだわ。
自分のこと、ちょっと安心した。
基本は変わっていないわよ、キリエよ。
大人になって知ったことは、どうやって作者のエリック・カールさんがこのお話の絵を描いた、というか創ったのか。
彼はたくさんの色を塗った紙を持っていた。
自分で塗って作っていた。
それをパーツごとに切って、貼り絵のようにして創っていた。
幼心に私はあおむしの絵を描いて、それを塗っていたのだと思っていたので、「ほほう」と感心した。
そして、エリックさんの膨大な自分で色を塗った紙のストックを見て「自分にはできない」と思った。
そんなエリックさんがお星さまになった。
寂しく思ったけれど、お星さまになってもおかしくない長さを生きていらしたので、「そうかぁ」としみじみしながらニュースを聞いた。
エリックさん、素敵な絵本をありがとう。
私に異国のことを教えてくれてありがとう。
「世の中には自分の知らない世界がある」と本から感じ、知り、憧れ、このことがベースにあって、自分はソロのスペイン巡礼に行くまでになったんだろうなぁ、と思う。
好奇心、ってことね。
そういえば、あおむしも好奇心のかたまりだったね。
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