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コップ一杯のビール

2021/08/26








昔話をしよう。



もう10年以上も前の10月に父が倒れた。

状況は非常に厳しいもので、
いつ玉の緒が切れてもおかしくない。
万が一切れなかったとしても、植物人間であろう。
と担当の医師から覚悟するように言われた。



私は働いていたが正規の職員ではないので、お給料も微々たるものだった。

母は父と働いていたが、
父がすべてを取り仕切っていて、
彼が指示することをやっていたので、
仕事の進み具合やお客様との約束がどのようになっているのか、
一部しか知らなかった。



家族の死への不安。
経済的不安。
こんな状況で心ない発言をする親戚や知り合い。


一時的に県外に出ていた弟が戻ってきてくれたが、
状況が変わるわけではなかった。




切れるものはすべて切ろう。

「なくてもいい」と思われるものはとにかく止めた。
新聞も
ちょっとしたぜいたくなものも
とにかく片っ端から。


代わりに初めて携帯電話を持った。





ギスギスして重苦しい時間だった。





でも、このままでは倒れてしまう。
と危機感を持った。

なにもお楽しみがない生活では倒れてしまう。


私は、母に申し出て、缶ビールを1箱買うことにした。
私が支払った、と思う。



私たちが倒れないように、
ちょっとはお楽しみがなくちゃね。




1つの缶で、うちのコップだとちょうど2杯分になる。

ほぼ毎晩、母と私は二人でコップ一杯のビールを飲んだ。

「おいしいねぇ」と言えるその瞬間が好きだった。

きっと、一杯いっぱいだったけれど、
そのときの私たちは、
「ビールが飲める心の余裕がある」
ということは救いだった。





母が親戚に電話でこのビールのことを話していたのを聞いた。

母にも印象的だったのだと思う。









それから父は驚異の生命力を見せて、
植物人間にもならずに戻ってきた。








その後、彼はまた10~12月にかけて、
とにかく命にかかわるような怪我や病気を繰り返していた。

去年は11月に死にかけていた。



毎年、10月が来るたびに、
母と私は大きなため息をついていた。

「また10月が来たね」と。








私がもう誰だかわからないけれど、
父は安定した1年を過ごしている。

母は「いわくつきの10月」の到来のことなど忘れているほどだった。










コップ一杯のビールに救われたことをちょっと思いだした10月のある日。












■ 本日の写真

小浜島で飲んだ「石垣島の黒ビール」。

お店にあるのを買い、
そこで熱々のフレンチフライを揚げてもらい、
トウコと景色のよい場所を探して飲んだ。

栓抜きは私のヴィクトリノックスのナイフにあったので問題なし!