昔話をしよう。
もう10年以上も前の10月に父が倒れた。
状況は非常に厳しいもので、
いつ玉の緒が切れてもおかしくない。
万が一切れなかったとしても、植物人間であろう。
と担当の医師から覚悟するように言われた。
私は働いていたが正規の職員ではないので、お給料も微々たるものだった。
母は父と働いていたが、
父がすべてを取り仕切っていて、
彼が指示することをやっていたので、
仕事の進み具合やお客様との約束がどのようになっているのか、
一部しか知らなかった。
家族の死への不安。
経済的不安。
こんな状況で心ない発言をする親戚や知り合い。
一時的に県外に出ていた弟が戻ってきてくれたが、
状況が変わるわけではなかった。
切れるものはすべて切ろう。
「なくてもいい」と思われるものはとにかく止めた。
新聞も
ちょっとしたぜいたくなものも
とにかく片っ端から。
代わりに初めて携帯電話を持った。
ギスギスして重苦しい時間だった。
でも、このままでは倒れてしまう。
と危機感を持った。
なにもお楽しみがない生活では倒れてしまう。
私は、母に申し出て、缶ビールを1箱買うことにした。
私が支払った、と思う。
私たちが倒れないように、
ちょっとはお楽しみがなくちゃね。
1つの缶で、うちのコップだとちょうど2杯分になる。
ほぼ毎晩、母と私は二人でコップ一杯のビールを飲んだ。
「おいしいねぇ」と言えるその瞬間が好きだった。
きっと、一杯いっぱいだったけれど、
そのときの私たちは、
「ビールが飲める心の余裕がある」
ということは救いだった。
母が親戚に電話でこのビールのことを話していたのを聞いた。
母にも印象的だったのだと思う。
それから父は驚異の生命力を見せて、
植物人間にもならずに戻ってきた。
その後、彼はまた10~12月にかけて、
とにかく命にかかわるような怪我や病気を繰り返していた。
去年は11月に死にかけていた。
毎年、10月が来るたびに、
母と私は大きなため息をついていた。
「また10月が来たね」と。
私がもう誰だかわからないけれど、
父は安定した1年を過ごしている。
母は「いわくつきの10月」の到来のことなど忘れているほどだった。
コップ一杯のビールに救われたことをちょっと思いだした10月のある日。
■ 本日の写真
小浜島で飲んだ「石垣島の黒ビール」。
お店にあるのを買い、
そこで熱々のフレンチフライを揚げてもらい、
トウコと景色のよい場所を探して飲んだ。
栓抜きは私のヴィクトリノックスのナイフにあったので問題なし!
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