このブログは様々な変化を経て積み重ねている。
つぎはぎ、建て増し、崩れ、壊し、修繕し、新しいものを盛っていく。
そんな中、過去の多くの画像を失った。
そのとき、「画像がないと意味がない」「あまりいい記事ではない」というものを削除した。
その中に「尊厳の芸術展」の記事もあった。
削除した理由は、写真と一緒じゃないと意味をなさない記事として仕立てられていたからだ。
過去の画像をなんとかするより、新しいの写真と記事に重きを置きたかった。
そうして何年も放置していたが、最近になってふとあの写真のことを強く思い出すようになってきた。
理由は「確固たるアイデンティティ」について私が食らいついているせいだと思う。
半年以上、あまり余裕がなくこれまで溜めてきたエネルギーも使い果たしてガス欠状態になったり、それで動けなくなったりしていて、ちょっと慣れたかな、というところで新年度を迎えた。
また、多くのところで「周りがどう、ではなく、『自分はどうなのか』」と何度も問い質された気分でもあるし、自問自答している気がする。
忙殺。
余裕がない。
多数対少数での攻撃。
私は揺らぎ、ひとりになる覚悟をし、閉じこもり、荒れ、170%で戦い続け…を継続している気がする。
客観的にはどう見えているのかわからないけれど。
そのときに思い出すのだ、「尊厳の芸術展」のこと。
この特別展はなんと無料で開放されていた(2013年)。
第二次世界大戦中、日系アメリカ人が強制収容所に集められ厳しい生活をさせられた。
プライバシーも人権も奪われた状況の中、彼らは「それでも自分たちは誇りを持ち、自分らしく生きていく」ためにほんの小さなものを使って「生活に必要なもの」「人生に潤いを与えるもの」を制作していく。
それらの作品が展示されていた。
説明文を読むと、とても過酷なことを強いられていたのに彼らは決して「自分を失わないように」粘り強く耐えながら、自分を手放そうとはしなかった。
この時期、新生活が始まり、自分を見失う人も多いと思う。
私も「楽なほうに行きたい」と思うことがあるし、自暴自棄になることもある。
けれど、あの展覧会で見た作品が強く強く私の中で鳴り響いて、「常に自分の王様は自分でいなさい。誰にも支配されることなく、自分で考え決定しなさい」と訴える。
その欠片でもいいので、写真だけでもお見せしたいと思った。
データを探すと、残っていた。
説明文は覚えていない。
けれど、とても力強い作品だ。
私はこの展覧会のために美術館を訪れたわけではなかった。
けれど目的の特別展が吹っ飛んでしまうほど、たった一室での展示が強烈に残った。
見ていると胸がいっぱいになって泣きそうになった。
撮影可能だったのでそんな思いの中、撮った。
多分、最後はべそべそ泣きながら見ていたと思う。
写真を見たからといって、なにがどうなるわけではないけれど、誰かのところに届き、響くことがあってもいいかなぁ、と思い、今回ブログに改めて載せることにした。
ちょびっとずつ上げていくだろう。
よろしくね。
Kyrie
■関連記事
コメントを投稿
別ページに移動します