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生きてる実感

2021/06/05

登山家が亡くなったのを7時のニュースで聞いた。

まだ若かった。
私は「ああ、やっぱり」と思った。
若くして亡くなったが、それは腑に落ちた。



もう10年近く前になるだろうか。
私はその当時の友人に誘われて、その登山家の講演を聞きにいった。
その中で彼は、引きこもりの自分がいかにして登山家になったのか、を語った。

私は彼の話を聞いて、怖くなった。
そして、どうして誰か彼を止めないのだろう、と疑問に思った。

私は登山家でも冒険家でもないが、彼の話を聞けば聞くほど「なんで無謀なことをしているんだろう」と感じた。

登山の様子をネットで配信しているのが、その当時の若い人たちにうけていた。
今よりももっとインターネット環境がよくない状態でネット配信をするには、人体に影響が出るほど電波を発する機械を担いでいくしかなかった。

「単独で」と掲げているので、映像を撮影しながらの雪山の登山は、「カメラをセッティングし一度、その危険な場所をクリアする(このとき正面の大画面に映されていたのは大きなクレバスを渡ることだった)。そしてまた元に戻り、カメラを撤収する」のを繰り返しているのだと。


そんなに身体をボロボロにしながら、それも余計になんkgも荷物を増やし、より危険な状況に自分を追い込むのはどうなんだろう。


世の中には危険な状況に自分を追い込みたがる人がいるのだ、というのは知識として知っていた。
しかし、私はそれをこころよくは思えなかった。
どんな登山家も冒険家も、考えられるだけのありとあらゆる安全策を用いてその挑戦をするべきだ、と私は考えているからだ。

なぜかやたらとサバイバル的な、「生き延びる!」「生き抜く!」ことに関して興奮し、がむしゃらになってしまう私にとって、「最善の策を取った挑戦」とは思えなかった。




私は全然、彼に共感することなく講演を聞き終わった。
誘ってくれた友人はすっかり彼のとりこになっていた。
講演のあと、彼の挑戦に対する寄付金を募る呼びかけがあった。
私はそれを拒んだ。
友人は寄付をして、彼に握手し、「応援しています!」と誇らしげに言った。
友人と私の間に深い溝が刻まれた瞬間だった。




それから彼の名前はたまにちらりちらりと聞いた。
私は「まだあんな危険なことをしているのだろうか」と思いながら聞き流した。
多分、私は彼が止まれないことも感じていたのだと思う。
諦めに似た感情を持ちながら、「危険に追い込むことでこの人は生きている、と感じるのだろうな」と思っていた。




だから、彼の訃報を聞いたとき、「やっぱり」という思いだった。



彼を尊敬するかと聞かれれば「いいえ」と答えるが、彼を否定する気にはなれない。
そうでしか自分が生きていると実感できなかったんじゃないかな、そういう人だったんじゃないかな、と思うだけである。