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広島に生まれ育ったので、世界の歴史にも残る原爆投下の事実はつきつけられるし、家族親戚に直接の被害者がいなくても、日常の中でも気づけばつながっていることが多い。
広島市では小学校から「平和学習」が始まる。
途中から私学に進学したけれど、それでも多感な時期を「原爆投下」から始まり、ヒロシマ、ナガサキ、オキナワ…と学習内容は広がっていった。
平和学習は好きではなかったが、一方で思春期に入ると次第に私は「大変なことがあったヒロシマに生きる人」というのに酔いしれていったような気がする。
県外、海外の人に出身地を尋ねられると、特に海外では「ああ…」という反応がくることが多かった。
「あの気の毒なヒロシマのことは知ってる」と。
そういったことが拍車をかけ、「大変なことが起こったヒロシマに生まれ住んでいてそのことを伝承していく私」に酔いしれていった。
私は原爆も戦争も直接は知らない。
東日本大震災のことも知らない。
ここでの「知らない」は経験していない、ということ。
そんな私が酔いしれるだなんて、おかしいし、やっちゃいけないのだ。
悲惨なことを誰かに伝えるとき、経験していない自分がその悲惨さに酔いしれてはいけない。
伝えることは事実を淡々と説明する。
それを通して、自分が感じたり考えたりしたことを淡々と話す。
東日本大震災のことを取り上げたテレビ番組を幾つか横目で見ていて、「悲惨さに酔いしれる」ことがしやすいつくりになっているんじゃないかなぁ、と感じた。
ドラマティックではなく。
復興と感動でもなく。
悲惨さに酔いしれるのでもなく。
もっとなにかあるんじゃないかなぁ。
それがなにか、うまくは説明できなくて歯がゆい思いをしているけれど。
あと、8・6と同じね。
その頃になると年中行事みたいに報道され、人が集まり、それが過ぎるとすっかり忘れたように静かになる。
違うよ、そうじゃないよ。
あまり熱を込めると酔いしれそうになるし。
強く語れるものは、何一つ私は持っていないけれど。
自分ができること、したいことをしていく。
淡々と。
冷静に。
悲惨さに酔いしれないように
|2021/06/05広島に生まれ育ったので、世界の歴史にも残る原爆投下の事実はつきつけられるし、家族親戚に直接の被害者がいなくても、日常の中でも気づけばつながっていることが多い。
広島市では小学校から「平和学習」が始まる。
途中から私学に進学したけれど、それでも多感な時期を「原爆投下」から始まり、ヒロシマ、ナガサキ、オキナワ…と学習内容は広がっていった。
平和学習は好きではなかったが、一方で思春期に入ると次第に私は「大変なことがあったヒロシマに生きる人」というのに酔いしれていったような気がする。
県外、海外の人に出身地を尋ねられると、特に海外では「ああ…」という反応がくることが多かった。
「あの気の毒なヒロシマのことは知ってる」と。
そういったことが拍車をかけ、「大変なことが起こったヒロシマに生まれ住んでいてそのことを伝承していく私」に酔いしれていった。
私は原爆も戦争も直接は知らない。
東日本大震災のことも知らない。
ここでの「知らない」は経験していない、ということ。
そんな私が酔いしれるだなんて、おかしいし、やっちゃいけないのだ。
悲惨なことを誰かに伝えるとき、経験していない自分がその悲惨さに酔いしれてはいけない。
伝えることは事実を淡々と説明する。
それを通して、自分が感じたり考えたりしたことを淡々と話す。
東日本大震災のことを取り上げたテレビ番組を幾つか横目で見ていて、「悲惨さに酔いしれる」ことがしやすいつくりになっているんじゃないかなぁ、と感じた。
ドラマティックではなく。
復興と感動でもなく。
悲惨さに酔いしれるのでもなく。
もっとなにかあるんじゃないかなぁ。
それがなにか、うまくは説明できなくて歯がゆい思いをしているけれど。
あと、8・6と同じね。
その頃になると年中行事みたいに報道され、人が集まり、それが過ぎるとすっかり忘れたように静かになる。
違うよ、そうじゃないよ。
あまり熱を込めると酔いしれそうになるし。
強く語れるものは、何一つ私は持っていないけれど。
自分ができること、したいことをしていく。
淡々と。
冷静に。
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