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ちょっとそこまで、というときにつっかけるのは長年、下駄です。
庭の水やりや近くのコンビニに行くときは、下駄をはいています。
私の下駄歴は長いです。
小学校低学年の頃、ほぼ無人島の祖父母のところに長期休暇は預けられましたが、そこではいていました。
そこではギョサン、あるいは沖縄で島サンダル、と呼ばれている安価なビーチサンダルか下駄をはいていました。
着物が好きな祖母が自分のためにおいていたのでしょうか。
歯が二枚あって、赤いビロードのような鼻緒の下駄でした。
ほぼ無人島では、舗装や整備の行き届いた「きれいな道」はありませんでした。
さすがに草むらには入りませんでしたが、海のほうにある大きな石に上るときは下駄でもやりました。
朝は町の子どもと同じくラジオ体操前に起こされて、蚊帳から出て、アサガオが100以上も咲いているのを見ながら、ラジオ体操をしました。
もちろん専用の「出」に丸のついたはんこはないので、祖父が印鑑を押してくれました。
夏休み明けに学校にそれを持っていくと、「キリエはずるいことをしている」「このはんこはおかしい!」とクラスの子にすごく言われました。
親が担任に事情を説明してくれ、先生もそれを話してくれましたが、それはその場限りで、しばらくは「おかしい!」と言われ続けました。
まぁ、それは置いといて、6時40分に朝食の準備ができるはずもなく、七輪や包丁を使っている台所に入るのは危なかったので、しばらく自由時間でした。
下駄をはいたままラジオ体操をし、下駄をはいたまま海岸へ行きました。
小さな砂浜がありました。
ちょうど、海の汚染問題が話題となっていて、プラスチックの容器がたくさん流れ着いていました。
それでも「ゴミ溜め」のようではなかったので、私は潮が満ちたり引いたりしたあとの海岸に降り立ちます。
有名な句のように砂地に「二の字二の字」をつけて歩いていきます。
まだ十分に湿っていて、昨日までの足跡がすべて消えた砂地をさくさくと音を立てて歩いていくのは、とても快感でした。
運がいいと、綺麗な桜貝を見つけることもありました。
それから私も大きくなると長期休暇に祖父母に預けられなくなりましたが、ちょっとした休みに家族や親戚で島に行ったときは、すぐに下駄に履き替え歩きまわりました。
私がはくと下駄がすぐに傷んでしまうので、祖母としては面白くなかったのでしょうが、あまりにも私が好んではくために、あるときから「私の下駄」が用意されるようになりました。
しかし、小学校を卒業するころになると電気もガスもない島に行くよりか、家にいたほうがよくなり、足が遠のいていきました。
やがて祖父母も年を取り、島から引き揚げて本土へやってきました。
私は下駄をはく機会を失ったかに見えました。
しかし、祖母の子である母が安価な下駄を買ってきました。
その頃からずっと、「ちょっとそこまで」というときには下駄をはくようになりました。
大人になり、必要はなかったのですが「このままじゃダメになる!」と思って一人暮らしを始めたときも下駄を持っていきました。
それからもう1回、引っ越しをしましたが、そのときにも下駄を持っていきました。
今は実家にいますが、下駄も代替わりをしながらも、今もはいています。
なんでこんなに下駄が好きなのかなぁ、と考えてみますが、特に大きな理由はありません。
ただ、下駄をはくと和装をイメージします。
着物や浴衣。
空想好きな子どもでしたが、その中に「着物を着た女の子になる」というのもあり、着物を着た時の所作のことを想像しながら「空想ごっこ遊び」をしたものでした。
簡単に着物を着るわけにはいきませんが、下駄なら簡単にはいて「着物少女気分」が少しだけでも味わうことができたのです。
そういうところかしら、と思いながら、今でも下駄をはきます。
最近の下駄は、安定がいいようにか、加工が簡単なのか、「靴の底」のようなものが多いです。
でも私は、歯が二枚で、砂地を歩くと二の字が書ける下駄のほうが好きです。
音がうるさい、と言われますが、下駄のあの音は大好きです。
■参考
私のサバイバル体験はここから?ほぼ無人島で過ごしたことがある
下駄ラヴァー
|2021/06/05ちょっとそこまで、というときにつっかけるのは長年、下駄です。
庭の水やりや近くのコンビニに行くときは、下駄をはいています。
私の下駄歴は長いです。
小学校低学年の頃、ほぼ無人島の祖父母のところに長期休暇は預けられましたが、そこではいていました。
そこではギョサン、あるいは沖縄で島サンダル、と呼ばれている安価なビーチサンダルか下駄をはいていました。
着物が好きな祖母が自分のためにおいていたのでしょうか。
歯が二枚あって、赤いビロードのような鼻緒の下駄でした。
ほぼ無人島では、舗装や整備の行き届いた「きれいな道」はありませんでした。
さすがに草むらには入りませんでしたが、海のほうにある大きな石に上るときは下駄でもやりました。
朝は町の子どもと同じくラジオ体操前に起こされて、蚊帳から出て、アサガオが100以上も咲いているのを見ながら、ラジオ体操をしました。
もちろん専用の「出」に丸のついたはんこはないので、祖父が印鑑を押してくれました。
夏休み明けに学校にそれを持っていくと、「キリエはずるいことをしている」「このはんこはおかしい!」とクラスの子にすごく言われました。
親が担任に事情を説明してくれ、先生もそれを話してくれましたが、それはその場限りで、しばらくは「おかしい!」と言われ続けました。
まぁ、それは置いといて、6時40分に朝食の準備ができるはずもなく、七輪や包丁を使っている台所に入るのは危なかったので、しばらく自由時間でした。
下駄をはいたままラジオ体操をし、下駄をはいたまま海岸へ行きました。
小さな砂浜がありました。
ちょうど、海の汚染問題が話題となっていて、プラスチックの容器がたくさん流れ着いていました。
それでも「ゴミ溜め」のようではなかったので、私は潮が満ちたり引いたりしたあとの海岸に降り立ちます。
有名な句のように砂地に「二の字二の字」をつけて歩いていきます。
まだ十分に湿っていて、昨日までの足跡がすべて消えた砂地をさくさくと音を立てて歩いていくのは、とても快感でした。
運がいいと、綺麗な桜貝を見つけることもありました。
それから私も大きくなると長期休暇に祖父母に預けられなくなりましたが、ちょっとした休みに家族や親戚で島に行ったときは、すぐに下駄に履き替え歩きまわりました。
私がはくと下駄がすぐに傷んでしまうので、祖母としては面白くなかったのでしょうが、あまりにも私が好んではくために、あるときから「私の下駄」が用意されるようになりました。
しかし、小学校を卒業するころになると電気もガスもない島に行くよりか、家にいたほうがよくなり、足が遠のいていきました。
やがて祖父母も年を取り、島から引き揚げて本土へやってきました。
私は下駄をはく機会を失ったかに見えました。
しかし、祖母の子である母が安価な下駄を買ってきました。
その頃からずっと、「ちょっとそこまで」というときには下駄をはくようになりました。
大人になり、必要はなかったのですが「このままじゃダメになる!」と思って一人暮らしを始めたときも下駄を持っていきました。
それからもう1回、引っ越しをしましたが、そのときにも下駄を持っていきました。
今は実家にいますが、下駄も代替わりをしながらも、今もはいています。
なんでこんなに下駄が好きなのかなぁ、と考えてみますが、特に大きな理由はありません。
ただ、下駄をはくと和装をイメージします。
着物や浴衣。
空想好きな子どもでしたが、その中に「着物を着た女の子になる」というのもあり、着物を着た時の所作のことを想像しながら「空想ごっこ遊び」をしたものでした。
簡単に着物を着るわけにはいきませんが、下駄なら簡単にはいて「着物少女気分」が少しだけでも味わうことができたのです。
そういうところかしら、と思いながら、今でも下駄をはきます。
最近の下駄は、安定がいいようにか、加工が簡単なのか、「靴の底」のようなものが多いです。
でも私は、歯が二枚で、砂地を歩くと二の字が書ける下駄のほうが好きです。
音がうるさい、と言われますが、下駄のあの音は大好きです。
■参考
私のサバイバル体験はここから?ほぼ無人島で過ごしたことがある
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