朝のラジオ体操のときには、らじるらじる。
ふと、「ラジオ(番組)を聞くとき、ラジオ(機械。ラジオ受信機?)がなくてもいいんだ」と気づいた。
スマホがない頃、ラジオを聞くにはラジオの機械、ラジオ受信機がないと聞けなかった。
私がひとり暮らしをしていた頃、そのときの仕事は朝から夕方までで、お弁当を持っていっていた。
そこでどうしていたかというと、実家で母がやっていたのと同じようにCDラジカセでローカルラジオ番組を聞きながら、朝の支度をしていた。
番組やアナウンサーのことばで、時計を見なくても時刻がわかった。
しかし、次第にCDラジカセも廃れ、かさばるプレイヤーも手放し、そこから音楽自体からも離れていった。
再び戻ってきたのは、PCで音楽を再生し、そしてiPodが手軽に持てるようになってからである。
でも、それではラジオ番組を受信できない。
父が亡くなったとき、葬儀場で一晩、家族で父を守った。
前夜の通夜でも疲れていたが、この日は葬儀本番(?)だ。
しんとして音のない空間で、私はその場で初めてradikoをダウンロードし、いつも朝聞いていたラジオ番組を流した。
もちろん母もそこにいて、なんとなく「いつもの朝」がやってきたような気になった。
私が家を出たのは、距離的な問題としては不要だったけれど「このままじゃ自立できない!あたいは自立するんだ!」という理由だった。
それなのに朝、ラジオを流し始めた自分に愕然とした。なにひとつ、親からの呪縛、特に母からの呪縛から解放されていない気がしたからだ。
でもラジオを流すと「ああ、朝だ」と感じ、朝の支度がスムーズにできた。
これが自分の好きなアーティストのアルバムだと、ことが進まなかった。
「ラジオが流れている朝」は私にとって「いつもの朝」であり、「日常の朝」だったのだ。
一度家を出て、諸事情がありまた母と一緒に暮らしている。
もちろん朝はいつものあのラジオ番組が流れている。
私は年を重ねたせいか、ラジオを聞いても「朝だ!」とは思うけど、「朝の支度をしなくっちゃ」とは思わないようになっていて、だらだらと布団の中で過ごしてしまう。
それでもやたらと朝早くに目が覚めたときは、自室でそっとラジオ体操をオンタイムでやっちゃうのさ。
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