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私のお好み焼き文化は「まぜ焼き」から

2021/06/05

広島にいるので、さぞかしお好み焼きに対してはこだわりがあるのではないか、と思われるかもしれないが、実はそうでもない。

「広島焼き」という耳慣れない、地元ではなない、他のところから名づけられた名前で呼ばれると「そがぁなもんは聞いたことないのぉ」と言いたくなるくらいである。


個人の食文化は、自分が育った土地、両親の出身地などでそれぞれ違いがあるだろう。

私の食文化の中で、広島風お好み焼きの文化は浅い。



幼少期は田舎というか、まぁ、田んぼや畑はあまりなかったけど、田舎だったので、「外食をする」ということが滅多になかった。
なので、広島風お好み焼きを食べずに育った。

それでもオタフクソースは調味料や小麦粉なども売っている八百屋でも扱いがあった。
ちょっと甘めのソースはウスターソースより、子どもの舌になじみ、弟はお好みソースが好きだった。
私は食べるものによってソースを変えるのが好きだった。


では小さい頃、お好み焼きを食べたことがないか、と言えば、そうでもない。

私の両親は共働きで幼稚園や小学校から帰ると、近くの祖父母宅で世話になっていた。

祖父母は出身は備後か四国かあのあたりのようだったが、大阪で過ごしたことがあるらしかった。
なので、祖父母が作る「まぜ焼き」というのが、私の中の「初めてのお好み焼き体験」だ。

大阪のお好み焼きは生地に具材を全部混ぜて焼くが、それに近い。
キャベツ、天かす、魚の粉、小麦粉、卵。
豚肉はあらかじめ焼いて混ぜ込む。
それをホットプレートで焼く。

こういうことは祖父のほうが好きだったようで、あれこれこだわって「いかに前回よりおいしくするか」と工夫しているようだったが、箸の上げ下ろしからなんやらかんやらがうるさく、「楽しい食卓」というより、しつけがなっていないのを全て嫁の母のせいにする愚痴も聞かされ、大声で怒鳴られるので、この二人との食事の時間は苦痛でしかなかった。



小学校の高学年になる頃、引っ越しをし、もっと街に近いところにやってきた。
両親の職場に近くなり、そこにお好み焼き屋があった。
これは広島風お好み焼きだった。
またおでんも扱っていた。

ここが私のお好み焼き文化第二章の始まりであり、「食べ方がわからん」とお作法についてとても困ることが起こる。




私が鉄板の上で、お好み焼きをヘラで食べるようになったのは大学生になってからだと思う。
もともと食が細めで(今はそうでもないけれど、でもお好み焼き1枚を一人で食べきろうとするとかなり他のものをセーブする。じゃないと入らない。ビール飲んで、あとからお茶する、というお腹具合にするのなら3人で2枚。あとは鉄板焼きのなにかに筋煮込みなんかを混ぜて、調整したい感じだ)、お好み焼き屋で食べるには勇気がいった。
きちんと食べきらないと(それもどれだけ苦手なものでも)だめなのだ、というのは前述した祖父の厳しい教えがいまだに残っているからだ。



今でも県外から人がやってきてお好み焼きを一緒に食べることはあるけれど、ヘラの扱いはうまくない。
なかなか食べきれないので、鉄板の上でお好み焼きが少し干からびてしまう。





しばらく人をご案内していないし、お好み焼き屋というのは大概密みつしている。

安心してお好み焼き屋にご案内できるときが早くくるといいな。

オトナですからね、「軽いお好み焼き」のオーダーもできるし、そこはご心配なく。






写真はキョウチクトウの花。
原爆が落ちて50年も70年も植物が生えることはない、と言われた広島の街で一番に咲いた花だ。
だから、広島市の花となっている。

今年も咲き始めた。