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NHKでアニメーション映画「この世界の片隅に」を放映する、とTwitterで知り、私は大きくうなった。
子どものときに広島市内にいると、小学生から「平和学習」が行われる。
それがつらくて怖くて、逃げられなくて、学生の間は否応なしに受けていたそれを、大人になると避けられるだけ避けようとしてきた。
結局は避けられないのだけれど。
この映画が話題になり、どんどん上映する映画館も増え、上映期間が延びていくのをそっと見ていた。
何度か「見ておいたほうがいい作品だな」とも思った。
しかし動かなかったのは、なにかに飲み込まれてしまいそう、という言い訳が心にあったからだと思う。
まあ、見たくなかったのだ。
それが今回、見てみようかな、と心が動いた。
おうちのTVという、映画館のような逃げ場のない空間ではないこと。
NHKという、CMも余計な情報も入らない局が放送すること。
そして、声優の細谷佳正さんがメインキャラクターの声を演じていらっしゃること。
最近、WEBラジオ「天才軍師」が面白くて聞いている。
細谷さんは、声優の安元洋貴さんと一緒にこの番組のパーソナリティーをされていて、とても興味深い。
そして細谷さんの演技力は、他の作品でもどすんと存在感がある。
「細谷さんがこの映画でどんな演技をされているのか、見てみたい」
これは大きな原動力だった。
私は2019年8月3日 21:00~、「この世界の片隅に」を見始めた。
あらすじその他は、きっと出尽くしているだろうからここではあまり取り扱わないことにする。
ざっくり言うと、絵を描くことが好きで、ちょっとぼんやりして、目の前のことに前向きでひたむきな女性すずさんが、広島市中区の「江波」というところから、請われてよくわからないまま、「呉」にお嫁に行く。
そこから激しくなる戦争をどう生きていくのかを淡々と、そして丁寧に描いている作品だ。
私が気にしていた細谷さんは、すずさんの夫・周作役であった。
最近は、戦争について伝えようとするのが難しい、と聞いたことがある。
NHKアナウンサーの出山知樹さんの「運命の背中」という、被爆者を扱った映画作成の裏話にも、原爆投下直後に走り始めた路面電車についてのまんが(「原爆に遭った少女の話」さすらいのカナブン・作)作成でも語られている。
当時のそのままを出したのでは「えぐい」「ぐろい」と、読者や観客に受け入れられないそうだ。
「このセカ」(「この世界の片隅に」の略称)は、全体的に淡いトーンで、不潔な感じも臭いもしなさそうな画面だった。
「ああ、これはまず観客の入り口としては、入りやすそうだなぁ」と思った。
原作ほど描かれていないようだが、それでもすずさんの嫁ぎ先での居心地の悪さも、そのほんわかした雰囲気とすずさんのしなやかなバイタリティで、一日一日を生きていく姿になっていく。
目を覆うほどの残酷なシーンはあまり見られないが、ぞわりぞわりと余裕のなさや死が迫ってくる空気が、私には息苦しかった。
見終わったあとは、なんだか魂が抜けていた。
怒りもわかず、泣きもせず。
ただ、どっと疲れた。
そして、「これは何年もかけて消化していくんじゃろうなぁ」と思った。
一番印象的じゃったのは、「日常」じゃった。
戦局の変化が日常の変化になっていく。
昨日まで「いつも」じゃったのが、あっという間に失われる。
それが、淡々と映し出される。
ブログ以外にも文章を書いているが、そこで扱っているものの多くが「淡々と」、「日常」だ。
派手さも華やかさもなく、夢のようななにかもなにもなく、とにかく淡々としたもの。
なんでそういうものばっかり書くんじゃろう、と思っていた。
読者としては、あれこれ起伏があって盛り上がったほうが興味を引くし、エンターテイメントとしては面白いじゃろうと思う。
じゃけど、私は「淡々と」にどうしてかこだわっている。
なにかあるんじゃろうなぁ。
あとはねぇ。
直接的じゃのうて、ちらっと見せることで深いものをくみ取らせる「見せ方」がたくさんあって、それがずっとずっと私の中に、大きな波のうねりのように残っとって、なかなか消ゃーせん。
なんなんかねぇ、日常って。
私は「日常」を失ったことはないのだけれど、失った人は見てはいる。
東日本大震災も、広島の続いている豪雨災害も、肌で感じとる。
なにかそういったものが、じわじわと私の中に影響しよるように思える。
映画を見て、「明日から私もがんばろう!」とか、「すずさんみたいにしなやかでたくましい女性になろう!」とか、そういうことは思わんかった。
なにが残ったかゆうたら、やっぱり「日々の生活を抱きしめていきたいのう」ということじゃった。
あとは、そうね。
この作品の中にたくさんの夫婦や夫婦にならなかった人たちが出てきてね。
今よりももっと、結婚はおおごとじゃったじゃろうし、嫁は働き手であり跡継ぎを産むものじゃし。
そのあたりは憂鬱になるんじゃけど。
「この人と一緒に生きていきたいなぁ」と思える相手に出会えた、というんは、ほんまにえぇことなんじゃろうなぁ、としみじみ思うた。
あれこれいっぱいあるんじゃろうし、ひとりが長い私にとっては「めんどくさい!」ということばかりなんじゃろうけど。
この夜ばかりは、「ひとりは寂しいなぁ」と思うた。
そんな感じかな。
まとまらんまんま、終わる。
最初からまとめようとは思うとらんかった。
なんというか、どこかで自分の内側に溜まったなにかを吐き出さんとしんどい、と思うた。
自分の手帳やノートでもえぇんじゃけど、でも、「対自分」だけじゃと冷静になれんけぇね。
余計なところまで自分をえぐってしまいそうで。
ブログじゃったら「他人の目」が入るじゃろ。
「他の人が読む」というのは、自分を多少は冷静にさせるけん。
また何年かしたら、なにか書くかもしれんし、書かんかもしれん。
それでえぇと思うとる。
いつになったら、うねりが消えるかのう。
夜寝られんようになったり、食欲が失せたり、ぶり返しが結構あるんよ。
じゃけぇ、避けとる部分もあるんかもね。
もうすぐ8・6も来るね。
ほんまはここで、「呉氏」(呉市のゆるキャラ)のPRダンス動画を貼ろうと思うとったけど、そんな気分にもなれんけぇ、やめた。
繰り返すようじゃけど、寝てご飯食べて、仕事して、掃除して、片付けして……って、なんのことはないけれど、それを重ねて年月は流れるし、それが日常で、一日を生き延びることなんじゃなぁ。
特別なことはないんじゃなぁ、と思う。
■参考
この世界の片隅に【映画】
映画「この世界の片隅に」 / 淡々と。日常を。
|2021/10/01NHKでアニメーション映画「この世界の片隅に」を放映する、とTwitterで知り、私は大きくうなった。
子どものときに広島市内にいると、小学生から「平和学習」が行われる。
それがつらくて怖くて、逃げられなくて、学生の間は否応なしに受けていたそれを、大人になると避けられるだけ避けようとしてきた。
結局は避けられないのだけれど。
この映画が話題になり、どんどん上映する映画館も増え、上映期間が延びていくのをそっと見ていた。
何度か「見ておいたほうがいい作品だな」とも思った。
しかし動かなかったのは、なにかに飲み込まれてしまいそう、という言い訳が心にあったからだと思う。
まあ、見たくなかったのだ。
それが今回、見てみようかな、と心が動いた。
おうちのTVという、映画館のような逃げ場のない空間ではないこと。
NHKという、CMも余計な情報も入らない局が放送すること。
そして、声優の細谷佳正さんがメインキャラクターの声を演じていらっしゃること。
最近、WEBラジオ「天才軍師」が面白くて聞いている。
細谷さんは、声優の安元洋貴さんと一緒にこの番組のパーソナリティーをされていて、とても興味深い。
そして細谷さんの演技力は、他の作品でもどすんと存在感がある。
「細谷さんがこの映画でどんな演技をされているのか、見てみたい」
これは大きな原動力だった。
私は2019年8月3日 21:00~、「この世界の片隅に」を見始めた。
あらすじその他は、きっと出尽くしているだろうからここではあまり取り扱わないことにする。
ざっくり言うと、絵を描くことが好きで、ちょっとぼんやりして、目の前のことに前向きでひたむきな女性すずさんが、広島市中区の「江波」というところから、請われてよくわからないまま、「呉」にお嫁に行く。
そこから激しくなる戦争をどう生きていくのかを淡々と、そして丁寧に描いている作品だ。
私が気にしていた細谷さんは、すずさんの夫・周作役であった。
最近は、戦争について伝えようとするのが難しい、と聞いたことがある。
NHKアナウンサーの出山知樹さんの「運命の背中」という、被爆者を扱った映画作成の裏話にも、原爆投下直後に走り始めた路面電車についてのまんが(「原爆に遭った少女の話」さすらいのカナブン・作)作成でも語られている。
当時のそのままを出したのでは「えぐい」「ぐろい」と、読者や観客に受け入れられないそうだ。
「このセカ」(「この世界の片隅に」の略称)は、全体的に淡いトーンで、不潔な感じも臭いもしなさそうな画面だった。
「ああ、これはまず観客の入り口としては、入りやすそうだなぁ」と思った。
原作ほど描かれていないようだが、それでもすずさんの嫁ぎ先での居心地の悪さも、そのほんわかした雰囲気とすずさんのしなやかなバイタリティで、一日一日を生きていく姿になっていく。
目を覆うほどの残酷なシーンはあまり見られないが、ぞわりぞわりと余裕のなさや死が迫ってくる空気が、私には息苦しかった。
見終わったあとは、なんだか魂が抜けていた。
怒りもわかず、泣きもせず。
ただ、どっと疲れた。
そして、「これは何年もかけて消化していくんじゃろうなぁ」と思った。
一番印象的じゃったのは、「日常」じゃった。
戦局の変化が日常の変化になっていく。
昨日まで「いつも」じゃったのが、あっという間に失われる。
それが、淡々と映し出される。
ブログ以外にも文章を書いているが、そこで扱っているものの多くが「淡々と」、「日常」だ。
派手さも華やかさもなく、夢のようななにかもなにもなく、とにかく淡々としたもの。
なんでそういうものばっかり書くんじゃろう、と思っていた。
読者としては、あれこれ起伏があって盛り上がったほうが興味を引くし、エンターテイメントとしては面白いじゃろうと思う。
じゃけど、私は「淡々と」にどうしてかこだわっている。
なにかあるんじゃろうなぁ。
あとはねぇ。
直接的じゃのうて、ちらっと見せることで深いものをくみ取らせる「見せ方」がたくさんあって、それがずっとずっと私の中に、大きな波のうねりのように残っとって、なかなか消ゃーせん。
なんなんかねぇ、日常って。
私は「日常」を失ったことはないのだけれど、失った人は見てはいる。
東日本大震災も、広島の続いている豪雨災害も、肌で感じとる。
なにかそういったものが、じわじわと私の中に影響しよるように思える。
映画を見て、「明日から私もがんばろう!」とか、「すずさんみたいにしなやかでたくましい女性になろう!」とか、そういうことは思わんかった。
なにが残ったかゆうたら、やっぱり「日々の生活を抱きしめていきたいのう」ということじゃった。
あとは、そうね。
この作品の中にたくさんの夫婦や夫婦にならなかった人たちが出てきてね。
今よりももっと、結婚はおおごとじゃったじゃろうし、嫁は働き手であり跡継ぎを産むものじゃし。
そのあたりは憂鬱になるんじゃけど。
「この人と一緒に生きていきたいなぁ」と思える相手に出会えた、というんは、ほんまにえぇことなんじゃろうなぁ、としみじみ思うた。
あれこれいっぱいあるんじゃろうし、ひとりが長い私にとっては「めんどくさい!」ということばかりなんじゃろうけど。
この夜ばかりは、「ひとりは寂しいなぁ」と思うた。
そんな感じかな。
まとまらんまんま、終わる。
最初からまとめようとは思うとらんかった。
なんというか、どこかで自分の内側に溜まったなにかを吐き出さんとしんどい、と思うた。
自分の手帳やノートでもえぇんじゃけど、でも、「対自分」だけじゃと冷静になれんけぇね。
余計なところまで自分をえぐってしまいそうで。
ブログじゃったら「他人の目」が入るじゃろ。
「他の人が読む」というのは、自分を多少は冷静にさせるけん。
また何年かしたら、なにか書くかもしれんし、書かんかもしれん。
それでえぇと思うとる。
いつになったら、うねりが消えるかのう。
夜寝られんようになったり、食欲が失せたり、ぶり返しが結構あるんよ。
じゃけぇ、避けとる部分もあるんかもね。
もうすぐ8・6も来るね。
ほんまはここで、「呉氏」(呉市のゆるキャラ)のPRダンス動画を貼ろうと思うとったけど、そんな気分にもなれんけぇ、やめた。
繰り返すようじゃけど、寝てご飯食べて、仕事して、掃除して、片付けして……って、なんのことはないけれど、それを重ねて年月は流れるし、それが日常で、一日を生き延びることなんじゃなぁ。
特別なことはないんじゃなぁ、と思う。
■参考
この世界の片隅に【映画】
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