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花を拾う人

2021/06/05


私の母はよく植物を拾ってくる。
剪定で切られた小枝や誰かがいたずらに抜いた根っこつき、あるいは庭の手入れで処分されそうな痩せた球根。


ティッシュにくるみ、枯れそうにへにょへにょになっている植物がバッグからころんと出てくるたびに「まったくもう」と思うが、はっと気がつくと私もその血を濃く引いている。



以前、一人暮らしをしていた。
6階建ての古いマンションというかアパートというか。
南側は広く駐車場が取ってあったので、日当たりは抜群だった。
線路が近くて電車の通過する音がうるさいのと、水の出が悪いのが難点だった。

1階は店舗が入っていて、昔からの馴染みじゃないと入りにくそうな中華屋さんと、私にはてんで縁がなさそうなスナックだった。

ある日、私が仕事から帰ると、その二つの店の間にある「花壇」と呼ぶにはお粗末なコンクリートで囲んだ土が入ったところに大きな枝が2本、転がされていた。
私は「ああああ!!!」と思ったが、平静を装い近づいてみた。
やっぱり!

それは大きな梅の枝だった。
まだ開きそうなつぼみが幾つも幾つもついていた。
枝は死んではいなさそうだった。

勝手な想像をすると、スナックでもらったが大きいし、花は咲かないし、で、打ち捨てられたんじゃないか、とその時の私は思った。
怒りと共に「助けなくっちゃ!!」と思った。
しかし、まだ外は明るく、人目がある。
私は祈るような思いで、平気な顔をしたまま、とにかく6階の自分の部屋に帰った。



暗くなってから。
私はあたりをよくよく観察した。
住宅街なので、静かだ。
私は部屋を抜け出し、人がいないのを確認してその2本の大きな枝を手にし、エレベーターに飛び乗った。

そしてそのまま誰にも会わずに自分の部屋に入ったとき、「やった!やってやった!!!」とひどく興奮した。



助けた、と思ったが、そんなに大きな梅の枝を活けるような容れ物を持っていなかった。
あれこれ探して、いつだったか母が沖縄のお土産に買ってきてくれた壺屋の抱瓶(だちびん)を使うことにした。
たっぷりと水を入れると重くなり、壁にもたれかからせるようにして梅を活けても器がひっくり返ることはなかった。
もう一本は、ビール瓶にした、と思う。
地ビールの瓶を持っていたのかも。


それからしばらく、私と梅との奇妙な生活が始まった。
暖房器具がこたつしかない部屋だったので、つぼみは長い間硬いままだった。
私は梅を助けることができなかったのか、と悲しくなった。


しかし、あるとき、梅は花開いた。
私は自分の部屋で梅の花見をした。
ぽちぽちとまだらに、それも小さく咲く梅だったが、高く香った。
多分、初めて持った自分のデジカメでそれを撮影したような気がする。
もしかしたら、もう残ってはいないブログに書いたかもしれない。



花がある程度咲き終わると、私と梅にも別れが訪れた。
このまま一緒にいるには大きすぎた。
私は謝りながら、枝を適当な長さに折って、ごみ袋に捨てた。



これが私の歴史上一番大きな「植物の拾いもの」である。


梅の花は好きなので、毎年梅林に梅狩りに行っているが、そのとき拾った梅のこともふんわり思い出せるといいな。