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聞いてよ、ノートさん

2021/06/05


つやつやの滑らかな書き心地のトモエリバー。
美しい発色のインクと万年筆。

私のノートは美しい。



そんなきれいなノートはきれいに使いたいし、きれいなことばを連ねたい。
そう思って、ここ数年はそうしていた。
そしてたまに愚痴を書くときは、ひどい背徳感を持つ。


私は「溜め込みすぎるタイプ」なんだろうなぁ、とぼんやり思う。
思ったり感じたりするけれど、周囲の状況を必要以上に見たり、「言っても仕方ない」と言葉と感情を飲み込む。
それはものを食べてどんどん膨らんでいくお化けのようになり、「もうお腹いっぱいで入らないのに、まだ食べなくちゃならないんだよう」と醜い姿で、そうなってしまうと泣くことすらできなくなる。


11月の半ばから、仕事やプライベートで踏ん張らなくちゃならなくて、なのに追い詰められて、バクハツした。
その時につき合ってくれた人が、少しずつ、私のペースで話を聞いてくれた。

私は「あの時、あんなことされてイヤだったの」、「ああいうふうに呼ばれて悲しかったの」とこれまで溜め込んできたことをぽちりぽちりと話し始めた。
その人は静かに聞いてくれた。
そして私に必要以上に同情することもなく、必要以上に誰かを攻撃することもなく、自分も似たようなことがあったんだと自分語りをすることもなく、淡々と自分の感じたことや考えを言った。

私は溜め込んだ歪んで醜いものを人の前にさらけ出してしまい、申し訳なく思ったが、とても楽になった。

そこでやっと「ああ、自分は溜め込みすぎなんだ」と気づいた。
子どものときに自家中毒を繰り返していて、その意味を大人になって知ったとき「我慢しすぎない」と決めたはずだったのに、すっかりそれを忘れて溜め込んでいた。




毎回、その友達に話をするのもなんだかなぁ、と思った。

吐き出せばいいんだ、と思った。


どこに?

ノートに。


なんのためのノートだ。
醜いことばが並んだとしても、そうしないと自分がいっぱいになってしまってどうしようもなくなって苦しむより、マシじゃないか。
きれいなことばが並んだノートを抱えて、醜く膨れていく自分より、ノートに聞いてもらってこまめに吐き出したほうがいいじゃないか。
SNSに吐き出すより、マシだ。



ますます人に見せられないノートになっていくが、それでもいい。
私はノートも頼りにしながらこの1年過ごしたい。