どうも、キリエです。
2週間くらい前に会った友達に「リュックがほしい。できれば2つ」と話したら、驚かれた。
私にしてみればごく自然なことだったので、その反応にこっちが驚いた。
リュックが2つほしい理由を聞かれ、「用途が違う」と答えた。
雨の日用と晴れの日用。
「でもリュックなんだよね?」とダメ推しのように確認されて「そうだよ」と言った。
そして実はボディバッグも破損してきて(おそらく重いものを入れ過ぎたのだと思う)、新しいのがほしい。それも2つ。と言った。
最終的には「リュックだけど!ボディバッグだけど!ちょっとずつ違うの!」と駄々をこねるコドモみたいなことを私は言うしかなかった。
それは母たちがアイドルグループを見て「全部同じに見える」と言ったときと同類の悲しみだった。
私はこだわりがあり、たくさんあるリュックの中からうんうん唸りながら、自分のほしい条件といろんなメーカーのリュックを照らし合わせ、ああでもない、こうでもない、と吟味した結果の2つだった。
もっと選んでいいのなら、アークテリクスだけで3つくらいほしいし、ミステリーランチもandwanderもいくつか気になるものがある。パタゴニアもいいかもしれないし、タウンユースかちょっとタイトな旅にも耐えられるものがいいのか、の考える幅によってはもっとたくさんほしくなる。使ってみたくなる。
ちなみにボディバッグはアークテリクスのマンティス1とマンティス2で迷っている。場面と用途によって使いたいものが違うのだ。
マンティスの1と2は容量の違いなのだ。むむう。
理想のリュックも理想のボディバッグも、まだ出会っていない。
いずれも「あー、あとここがよかったら完璧なのにぃぃぃ」と思う。
なので選びきれずにいくつもほしくなるのだ。
うっかり自分のほしいリュックの話になっているけど、このブログで言いたいのは、自分が情熱を傾けていることに身近な人は関心がない寂しさは「小さな違いが共有できないこと」なんじゃないか。ってこと。
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