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「ちょっとずつ違う」は「ほとんど同じ」ではない

2021/06/05

 


どうも、キリエです。

2週間くらい前に会った友達に「リュックがほしい。できれば2つ」と話したら、驚かれた。

私にしてみればごく自然なことだったので、その反応にこっちが驚いた。

リュックが2つほしい理由を聞かれ、「用途が違う」と答えた。

雨の日用と晴れの日用。

「でもリュックなんだよね?」とダメ推しのように確認されて「そうだよ」と言った。

そして実はボディバッグも破損してきて(おそらく重いものを入れ過ぎたのだと思う)、新しいのがほしい。それも2つ。と言った。


最終的には「リュックだけど!ボディバッグだけど!ちょっとずつ違うの!」と駄々をこねるコドモみたいなことを私は言うしかなかった。

それは母たちがアイドルグループを見て「全部同じに見える」と言ったときと同類の悲しみだった。


私はこだわりがあり、たくさんあるリュックの中からうんうん唸りながら、自分のほしい条件といろんなメーカーのリュックを照らし合わせ、ああでもない、こうでもない、と吟味した結果の2つだった。

もっと選んでいいのなら、アークテリクスだけで3つくらいほしいし、ミステリーランチもandwanderもいくつか気になるものがある。パタゴニアもいいかもしれないし、タウンユースかちょっとタイトな旅にも耐えられるものがいいのか、の考える幅によってはもっとたくさんほしくなる。使ってみたくなる。

ちなみにボディバッグはアークテリクスのマンティス1とマンティス2で迷っている。場面と用途によって使いたいものが違うのだ。

マンティスの1と2は容量の違いなのだ。むむう。


理想のリュックも理想のボディバッグも、まだ出会っていない。

いずれも「あー、あとここがよかったら完璧なのにぃぃぃ」と思う。

なので選びきれずにいくつもほしくなるのだ。


うっかり自分のほしいリュックの話になっているけど、このブログで言いたいのは、自分が情熱を傾けていることに身近な人は関心がない寂しさは「小さな違いが共有できないこと」なんじゃないか。ってこと。